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着物大事典

【特集版】着物コラム

千手観音像など見事な造形が残る三十三間堂と桂離宮

京都名所特集と銘打ってご紹介するのは、京都にある神社仏閣の特徴や歴史についてです。細かくご紹介して、観光などの際に役立てていただきたいと考えております。第5弾の今回は三十三間堂(さんじゅうさんげんどう)と桂離宮(かつらりきゅう)です。

 

●三十三間堂

三十三間堂は東山七条、京都駅からバスで一〇分ほどの地に建0仏堂である。正式な名は蓮華王院と いう。平安時代末期に後白河上皇が自分の離宮として建てた法住寺の中に創建した。

法住寺は上皇が平清盛に命じて資金を提供させ、離宮として建立した。倉」建当時は五重塔もある壮大な寺院で、三十三間堂はその境内の一画に建てられた本堂であった。だが一二四九年の火災で法住寺は焼失。三十三間堂だけが再建され現在に至っている。

ここには一千一体もの十一面千手観音像が祀られていることで知られる。お堂の中央に本尊の千手観音の座像が安置され、その左右に長大な階段状の仏壇があり、一〇〇〇体も

の千手観音立像がズラリと並ぶ。本尊の千手観音像の背後にも一体の立像があるので合計

一千一体である。その光景は圧巻で、お堂に足を踏み入れると、一千一体の観音さまに圧倒される。京都の寺でもこんなに仏像が並んでいるのはここだけである。これらの観音さまをつくったのか。仏像彫刻士で有名な運慶とその子湛慶で、弟子を七〇名余もっかって製作したとは、三十三間堂という名は、本堂の内陣の柱と柱の間の数が三三あることからついたといわれる。また 『法華経』 の教えによると、三三という数は、観音さまが三三の姿に化身して民を救ったことにちなむという。ではなぜ後白河上皇はこんなに膨大な観音像をつくらせたのだろうか?一千一体の観音さまはそれぞれ一体が四〇の手を持つ。したがって観音さまの救済は計り知れない。

後白河上皇は観音さまに計り知れないほどの救済を求めたのではないかといわれる。上皇は徐々に権勢をつけて台頭してくる平家と源氏の武士と対立を繰り返した。戦乱が相次ぎ平清盛とも対立し、何度も幽閉されて、 ついには院政を停止させられた。波乱万丈の人生で、 一瞬たりとも心が休まることはなかった。その上、世の中は相次ぐ天変地異と戦乱で疲弊し、末法思想が蔓延していた。

上皇は末法の世と自身の救済を膨大な数の観音像に求めたのである。

 

●桂離宮

有名なドイツの建築家プルーノ・タウトが「日本建築の世界的奇跡」が、京都の西郊外、桂川の西岸に造営された桂離宮である。

七ヘクタールに及ぶ広大な敷地には、見事な造形美の庭園、池、茶亭、築山、燈籠、書院などが配されている。デザイン、色、造りに複雑で巧妙な工夫がなされ、 1スペクテイプ(遠近法を強調する画法) などの西洋建築様式も取り入れ、じつに優れたデザインのた 建築であると、世界的にその名が轟いている。

この離宮は、江戸時代の初めに八条宮智仁親王と智忠親王の親子が八条家の別荘として   造営したもの。智仁親王は文化、芸術、芸能などにすぐれていた。さらに茶道家で建築、名造庭の天才といわれた小堀遠州が離宮造営に当たって親王父子に協力したといわれる。

建物は書院造りと数寄屋造りの代表的建築である。素晴らしい建築物だが、天皇家の離宮のため見学は自由にはできず、事前に申し込むことが必要である。

謎めいているのは、離宮の庭園内にキリシタン燈籠が七つも存在すること。燈籠は古くから寺院や神社の灯りとして石や銅などでつくられてきたものだが、キリシタン燈籠は石灯籠の竿が十字架の形をしていたり、マリア像のレリーフが彫られていたりする。キリスト教が禁じられた時代に、十字架やマリア像を燈籠に隠し彫って、キリシタンが密かに信仰の助けとしたものである。

しかし桂離宮は天皇家の建物なのに、なぜキリシタン燈籠が置かれているのか?

じつは八条宮家の家臣で智仁親王が信頼を置いていた本郷織部がキリシタンだった。江戸時代にはキリスト教は禁じられていたので、織部は処刑された。

それを悲しんだ智仁親王が彼の死を悼んで、小堀遠州にキリシタン燈籠を造らせたのではないかといわれている。燈籠が七つあるのは、織部家の者が七人処刑されたからではないかともいわれる。また別の説では、智仁親王の妻女は、キリシタン大名の京極高知とマリア夫去の娘であったからという。離宮内にさまざまな西洋建築が取り入れられているのも、妻女の影響ではないかといわれている。